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大切な人との別れ

今年88歳の米寿のお祝いをしようねと約束していた義父が、6月7日に急逝いたしました。

数年前からパーキンソン病を患い、ここ数年はコロナの影響で少し痴呆も進んできていた義父。
それでもいつもにこやかで穏やかな人でした。
私のことも分かっているのか、分かっていないのか。
それでも
「誰だ?」
「名前は?」
とかそんなことを聞かれたことはなく、いつもにこにこ迎えてくれました。
最後はヘルパーさんだと思っていたみたいですけど(笑)

昨年の暮れに、どうやら肺の機能が低下していて、肺気胸、間質性肺炎の疑いがあると診断され、ちょうど大学受験を控えている次男のいる我が家は
今年のお正月にも会えず。。。
義両親には寂しい思いをさせてしました。

合格発表の通知をもって、義両親宅に遊びに行ったとき、義父から
「すごいね、すごいね」
と褒められたと、次男が喜んで帰ってきたのが昨日のことのようです。

ゴールデンウイークにも私と次男で顔を見に行きました。
まだなんでも食べられていたので、お昼ごはんにお寿司を買っていったら
「うめ~うめ~」
とおちゃらげながら、機嫌よくお寿司を食べていた義父。
用事で来られなかった長男とLINE電話のテレビ電話でつないであげたら、びっくりしていました。
「おおー!!これはすごいね」

我が家の長男は、義両親にとって初孫。
長男は私以外の女性にはあまり得意ではなく、私の母にも、義母にもあまりなつかなかったのですが、義父とはとても仲良しでした。
小学校4年生くらいの頃かな。突然じいちゃんと二人で夏休みに旅行がしたいと言い出して。
その時の義父の嬉しそうな顔が目に焼き付いています。
2人で義父の故郷福島に3泊4日の旅に出ました。

それなので、もうかなり痴呆がすすんでいた亡くなる直前も、長男のことは分かる義父でした。
そして長男もやはりじいちゃんには特別の想いがあるのでしょうね。
救急車で運ばれたときは、朝出勤する前に病院に寄っていました。
残念ながら、受付で断られて面会できずに出社。
もうかなり危険な状態だったので、会社を早くあがってきて、面会時間内にもう意識のなかった義父に会いにいっていました。
いつ亡くなってもおかしくない状態だったのに、義父も長男が来るまで頑張ってくれました。

そして長女。
長女だけは独立していて、3年前から一人暮らしをしています。
親の私が言うのもなんですが、しっかりした娘です。そして性格が男の子みたい(笑)
3年間で実家に帰ってきたのは1回。連絡もこちらからしなければなし。こちらから連絡しても、帰ってくる返事は一言。。。
そんな娘です。
なんども帰ってきて祖父母に顔見せてあげてと言っても帰ってこず。。。
でしたが、救急車で運ばれたと連絡したら、夜中にかけつけてくれた娘。
3時頃に病院について、まだ意識のある状態でじいちゃんに会えたそうです。
もう何年も会っていないし、娘のことも分かってはいないと思うのですが、本人は
「名前を呼んでくれたよ。。。」と言っていました。
彼女には聞こえたのでしょうね。
そのあとすぐに意識がなくなったので、まだ目が開いているじいちゃんに会えて本当に良かった。

次男。。。
じいちゃんとの思い出は一番短い次男ですが、一番長く泊まりに行っていたのは次男でした。
上の二人は中学生になると、部活やら友達やらが優先で、夏休みに泊まりに行くこともなくなりましたが、次男だけは中三の夏休みまで泊まりに行っていました。
小さい頃は、トランプしたり、将棋したり。
ひょうきんなじいちゃんが大好きだった次男です。
最期も私と一緒に何回も会いに行ってくれた次男。
最後、じいちゃんからおこずかいもらったのが良い思い出になったね。
とても優しく、面倒見の良い次男は、最後までいろいろ声をかけてお水飲ませてあげたり、お皿を支えてあげたりしていました。

三人三様の思い出のある義父。
告別式ではこの三人の孫が受付をしました。じいちゃんもどこかから見ていてくれたかなあ。
立派になりましたよ、三人とも。
じいちゃんの孫はみんな元気で、楽しく、元気に成長しました。
じいちゃんのおかげです。
みんな見送らせてくれてありがとう。

また逢う日まで
今までありがとう
またね

by yuyu-to-sa-ta | 2023-06-19 22:11 | その他 | Trackback | Comments(0)
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